山本光学で働く3年目の社員がSWANSの歴史を紐解いていくブログ第2弾。
今回は戦時中から戦後復興していくまでの出来事をお話ししていこうと思います。
山本親子の先見の明
防塵眼鏡で大きな受注を得られるようになってきたさなか、1937年(昭和12年)から戦争が始まります。
当社も細々と事業を続けていたものの、空襲で自宅は全焼してしまいました。
しかし、戦争が終わったらすぐに眼鏡作りが始められるように、製作機械や工具は庭に埋め、眼鏡フレームに使用するセルロイド材は可燃物であることから井戸の中に沈めていたので戦火を免れたそう。用意周到すぎるよ山本親子…。
「スワン印」の水中メガネ
戦後すぐの1945年、戦火から守り抜いたセルロイド材を使って水中メガネの製造を始めます。
食糧難で川や海で魚を捕るために作られた水中メガネに付けたのは、かつて神戸港で憧れた白鳥の絵にちなんだ「スワン印水中メガネ」という名前でした。
発売直後は戦争直後だったため売れ行きは順調ではありませんでしたが、「スワン印水中メガネ」の名前で広告を出すと次々と日本全国から問い合わせや注文が寄せられるようになっていきました。
防衛庁に納めていた航空眼鏡
産業安全保護具分野の基礎を築く
さらに1950年代になると、製鉄会社からの要望に応えて溶接時に使うための遮光眼鏡の製造が始まります。
造船会社から溶接眼鏡、鉄道会社からは防塵保護眼鏡の要望など、まさに現在の産業安全保護具ブランド「YAMAMOTO」の基礎を築く製品の受注が殺到しました。
防衛庁の指定工場にも選ばれ、パイロット向け航空眼鏡や保護ゴーグルなどの生産も手がけていきました。
一般向けゴーグル製造のはじまり
いっぽう一般向けの製品開発としては、1950年代にオートバイに乗る人たちが当社の製品に注目したことから始まったといえます。
当時は舗装路が現在のように整備されていなかったので、商売の足として使われるオートバイやスクーターに乗る人の埃よけとして当社の防塵眼鏡が重宝されたそうです。
「SWAN」の名を海外へ
1950年代半ばごろから海外への輸出も盛んになり、海外向けに「SWAN」の名が冠されるようになりました。
それがなぜ複数形のSWANSになったのか、スポーツブランドとして展開することになったのかは、また別の機会に!
以上、戦時中から戦後の復興、それに伴う需要拡大までのお話でした。
時代軸での歴史のお話は一旦ここまで。
次回からは、くもり止め技術やプロアスリートとの関わりなど、今のSWANSを形作った事柄の歴史についてお話ししていきたいと思います。