SWANSブランドヒストリー vol.1|レンズ加工業からの出発

新たに「ブランドコンテンツ」というSWANSブランドに関する読み物ページができました!
ページ開設に当たり、何を書いていこうかなとあれこれ考えましたが、まずは「SWANSってどんな歴史のあるブランドなの?」というところを記事でご紹介できればと思います。

ということで、入社3年目の社員が、先人たちや社内に眠っていた資料から得た情報を頼りに山本光学やSWANSの歴史を全5回に渡り辿っていこうと思います。
第1弾の今回は、創業から戦前までのストーリーをお話ししていきます。

創業者の山本晴治(左から2番目)、2代目社長の山本健治(右から2人目)の姿も

レンズ加工業からの出発

山本光学の歴史は1911年(明治44年)、大阪でレンズ加工を行う「山本眼鏡レンズ製作所」として始まります。

創業者の山本晴治は福井県武生市で生まれ、小学校を卒業すると上京し、石油ランプや煙官、眼鏡などを扱う問屋の見習い奉公となりました。
その後、知人による薦めで大阪の眼鏡問屋に勤め、そこでレンズの加工技術を習得していきました。

1909年(明治42年)22歳の時に結婚、その後生まれた長男が二代目社長の山本健治です。

1935年(昭和10年)頃の社屋

「山本眼鏡レンズ製作所」創業

山本光学の創業はその2年後の1911年(明治44年)。
独立した晴治は大阪市内に社屋を構え「山本眼鏡レンズ製作所」と命名しました。
1914年(大正3年)に大阪市郊外に移転。自宅の庭に作ったトタン屋根の仕事場で晴治と職人二人が働く、いわゆる仕事場兼住宅の工場からスタートしました。
しかし昭和恐慌の不景気が訪れると、どんなに働いても暮らしは楽にならず、幼かった健治も家業を手伝いましたが辛い日々が続いたそうです。

当時のセルロイド製の防塵眼鏡

防塵眼鏡への工夫

仕事が無くて途方に暮れていたある時、世界最初のプラスチックと言われるセルロイド材のフレームにレンズを入れる防塵眼鏡の仕事が徐々に増えていきます。
しかし、当時のセルロイド製の眼鏡は、長時間着けていると目の周りにセルロイドの跡が残ってしまうものでした。
そこで晴治は顔に当たる部分を熱で折り曲げ、跡が残りにくいようデザインを工夫しました。

これが今の山本光学の基盤である「安全で快適」なモノづくりの始まりでした。

1943年(昭和18年)頃の社屋

東大阪市で「山本防塵眼鏡製作所」設立

1935年(昭和10年)になると、大阪市内から現本社がある東大阪市内に工場を移転し、合名会社「山本防塵眼鏡製作所」を設立。
その後の発展へと導く保護眼鏡の製造を強化していきました。

戦後のプロダクトに使われた「スワン印」

海外への憧れ「スワン印」

健治は自社製品の販売促進のため、当時海外貿易が盛んだった神戸港へ定期的に赴き、飛び込みで営業を行っていました。
そのころ神戸で一番取扱量が多く、高品質の証とされていたのが、木箱に白鳥の絵と「SWAN」の文字を刻印した外国製の防塵眼鏡だったそう。
戦後のプロダクトに使われた「スワン印」は、健治がこの時に感じた「自分もいつか高品質な製品を世界に販売したい」という憧れを実現するものでした。

スワン印、今見ても普通にかわいくないですか?
社内の一部では「スワンちゃん」と呼んでいます。

ここまで創業から戦前までの山本光学の歴史をお話ししました。
次回は戦時中から戦後にかけて事業を立て直していくまでをお話をしていきたいと思います。




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